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もう一度日本人であることを見直そう♪

暑い日が続いています。
そんなとき、南の島の上のような写真を見ると、ホント、癒されます。
実は、この写真、パラオ共和国にあるアンガウル島のものです。

戦前まで、パラオは日本でした。
いや、正確にはパラオは、日本の「委任統治領」でした。
「委任統治領」というのは、国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。
この制度は、もともとは、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配することに国際法的正当性を与えるために作られたものです。

だから、パラオは日本の植民地だった、という人がいます。
違います。
パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものであり、その日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆるものを与えました。

けれどそんなことより、もっともっと「はるかに大きなもの」を、日本はパラオに与えました。
そしてそのことを、パラオの人々は、いまも大切にしてくださっています。

それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。

パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。

日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。

昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきます。

島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。

こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
全員です。
そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
議場に籠って話し合い続けるのです。
そうして、みんなの意思を固める。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。

中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。

中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。

そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。
(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。



何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。


汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。




次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。


船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。



昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍は、総員48,740人です。

火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。

最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。

米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。
島はじっと沈黙したままです。

米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。

そのときです。


突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。

水際での戦闘は凄惨を極めました。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。

この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。



オレンジビーチ


10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。

けれど、日本軍には、補給が一切ありません。
食料も水もない。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。
だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。


日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。

11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。





その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。

こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。

中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、嘉賞11度、感状3度を与えられています。


中川州男大佐
明治31(1898)年1月23日生まれ
昭和19(1944)年11月24日戦死
享年47才


戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。

戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。


戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。
けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。

島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。

独立したとき、パラオの人々は、独立記念の歌を作りました。
以下がその歌詞です。

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる
  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

そして、下にあるのが、独立したパラオ共和国の国旗です。
この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗なのだそうです。


パラオ共和国国旗



周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわしています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。

お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。

【ペリリュー島の戦い】
日本軍
 戦死者 10,695名
 捕虜    202名
米軍
 戦死者 2,336名
 戦傷者 8,450名
村人の死者、負傷者、0名



パラオについて、読者のNさんから、次のようなお便りをいただきました。

~~~~~~~~~~~
最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。

今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。

日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。

夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて

「君たちは日本人か?」
と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。

そのとき老人が言ったことは家内が言うに

「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。

この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。

私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
~~~~~~~~~~~

このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。


海に沈むゼロ戦




旧日本軍のトロッコ跡



上の写真は、島に散ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が、当時のままに眠っている。

もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。


すこし、パラオのことを書きます。

パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。
スペインが植民地として支配したのです。

スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。
けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。

もともと、人口2万人くらいの島国です。
そのうちの90%が命を奪われた。
それがどういうことか、想像してみてください。

忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。
ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。

米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。

「植民地になる」ということは、そういうことなのだ。
そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。

私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。
そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。


さて、スペイン統治によって、パラオは、人口の9割が失われたパラオは、もともと、産業のある国ではありません。
スペインは、もうこれ以上パラオから収奪するものがなにもないとなったとき、わずか450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいました。

買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのだけれど、あまり効率はあがらない。
同時に、ドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。


そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。
パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。

日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦のあとに行われたパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。
けれど、これは英米の頑強な抵抗にあって、頓挫してしまいます。

代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治です。
これは、ひとつには、日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と一緒になり、植民地支配者としての収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたものであったと言われています。

ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治の委任を受けるとすぐに、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。

それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。
ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめました。

その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始した頃の、パラオの先住民の人口は、わずか6,474人です。
それが、いまやパラオは、人口20,303人(2005年)、なんと人口が3倍にも増えたのです。

当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。
中島敦といえば、「山月記」や、「李陵、弟子、名人伝」の著作で有名です。
彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人とまでいわれ、絶賛を浴びた人です。
そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂掛として現地に赴任したりしていたのです。

日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。
これには理由があります。
パラオには、パラオ語を書くための文字がなかったのです。
そして近代教育を施すため、たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。
ですから、すくなくともいったんは、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。


パラオの子供たちは、実によく勉強してくれました。
なんとパラオの子供達は、日本本土を含む、日本の支配地域の全域が参加する全日本共通テストで、総合第二位の成績を勝ち取っています。
これは、パラオで日本が、優秀な教育を施していたということの証拠であるとともに、パラオの子供達が、いかに教育を受けることを歓迎していたかがわかる逸話です。


ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。

まったくそういう都市インフラの整備事業にずっと接してこなかった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり東京タワーを作れ、といわれるのと同じで、そうそう易々とできることではありません。

では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したかというと、日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。

まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。

日本パラオに派遣した職員の数は、軍隊を除いても、なんと2万5千人です。
そして日本は、パラオにあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄いました。
そして戦後は、前々からの宣言の通り、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。


日本統治時代のコロールの街並み



ちなみにこの写真、大正から昭和初期頃に撮影されたとみられるパラオの町並みなのですが、写真の右側にハングル文字が映っているのがおわかりになりますでしょうか。

昨今の在日朝鮮人などは、日本が彼らの言語を奪ったなどとわけのわからないことを言いますが、日本人とともにパラオに来て働く彼ら朝鮮人のために、日本人はちゃんと彼らの文化を尊重したお店を作り、彼らのためのハングル文字の看板まで出しています。

短い期間でしたが、日本は委任統治を受けたパラオで、たくさんのことをしました。
学校をつくり、教育を与え、司法、行政、立法を教え、街のインフラを整備しました。

けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。

中川隊長以下、勇敢に戦い、散って行かれたみなさまに、あらためて黙祷をささげたいと思います。


<ご参考>
◆アンガウルの戦いと人種差別
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-890.html

◆ランボーは日本人だった! 舩坂弘軍曹物語
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-708.html

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ねえねえ、みんな聞いて!<拡散おねがいします>

今、福島はこんなになってるって知ってた?

東電からの賠償で得たお金で、仕事がなくパチンコしていたという報道は印象操作だった…
また、やられた。信じてしまった私はアホだ。

今、その賠償金が一時的だったとして返却を迫られている。何がどうなってんだよ!

以下、福島の方からのメールです。

---以下、転載---
福島の被災者をこのまま放っておいてはいけない。
皆様は福島の被災者の現実をご存じですか?


私は昨年の6月から支援活動を始め、現在は広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、は南相馬(小高、原町、鹿島)の仮設住宅、借り上げ住宅、施設、幼稚園、小学校、中学校、あわせて100カ所以上の方々に支援品送りをさせて頂いている者です。一時は川内村、都路、葛尾村にも支援をさせて頂いておりました。そうした中で、福島県の方々の苦悩を知るにつけ、この苦悩を見て見ぬふりしてはならないと思うようになりました。

どうか、皆様、現実の姿を知って、救いの手をさしのべていただきたくお願い申し上げます。
まず、支援品についてです。
福島は未だ寝具、衣類、下着、食器、生活消耗品、水、お米、調味料、食品などが不足しており、皆さまの温かいご支援をお願い申し上げます。
災害当初から支援は宮城、岩手に集中しておりました。福島は、原発への恐れからでしょうか、福島へ支援は入ることなく、宮城、岩手に流れておりました。支援品があふれて困っているとお聞きした宮城に、福島にお願い出来ないかと問い合わせましたが、他県に入ったものを福島に流すのは無理とのこと、ここでも決まりがあることを知りました。

私たちの義援金についてお話しさせていただきます。

これは日赤の方からうかがった話です。私たちの義援金はそのまま県に渡し、県から市町村、そして被災者にと委ねたそうです。海外からの義援金は被災者への家電6点セット、教育支援、体育館、病院修繕費、ソフト事業費少し大きい文字に。日赤としては国から資金をもらうことはなく、以前からの日赤の資金で毛布配りをしたとのことでした。被災者に義援金のことをたずねると、一家族につき5万円、7万円、30万円と町によって異なっておりました。それにしても余りにも少ない義援金。

私たちの義援金はどこに使われてしまったのでしょう? 

被災者にとって悲しかったことは、国からのお見舞金が何もなかったことです、とおっしゃっていました。
東電の補償金についてお話しいたします。

東電は賠償金の一部として昨年秋頃、単身者75万円、一家族(2人でも7人でも一様に)100万円支払いました。しかも申請のためには何ページもの書類を書かせられて。しかし、この賠償金は仮払金なので、全額返すように言われ、12月頃から被災者は返金させられています。

また、昨年6月から3カ月毎に、精神的損害金が一人10万円ずつ支払われるようになりました。しかし、このお金も仮払い金なので、6月からの3カ月分を返済するように言われ、被災者は自動的に引かれています。つまり、単身者は105万円、3人家族なら190万円を返金しなければならないのです。人によっては、毎月の10万円で返金することにした、という人もいます。何ということでしょう。

お金のない被災者は、どうやって生きて行ったらよいのでしょう?

国民年金のある人は月6万円で生活しています。光熱費、交通費すべてを6万円で。雪国の会津は灯油代の出費も加わり、食費が無く、食事を抜いている人もいると聞きます。被災者に国は生活保護制度を適用できないものでしょうか?
国民年金の年齢に及ばない人、住宅ローンの残っている人、仕事が見つからない人は、さらに深刻です。ある中学校の校長先生から「食事を食べないで来る子もいる。子どもたちはオヤツをするチャンスがないので、せめて学校でオヤツを食べさせたい。お菓子の支援が欲しい」と頼まれたとき、経済上の深刻さに唖然としました。
双葉町の町役場の責任者からうかがった話ですが、3月11日に職員は出張で仙台に行っていたそうです。それで当日双葉町にいなかったからと言って、東電はその人に賠償金を出さなかった、とのことです。かわいそうに、その職員は、家を新築して3月13日に入る予定だったとのこと。一日も住むことなく、ローンだけが残り、東電からは賠償金ももらえないのです。

福島の被災者に対する国や東電の対応については、いっさい報道されないために、地元の人でさえ本当のことが分からず、「あなた達は東電のお金で楽な生活をしているんでしょう」と言われ、子どもまでもがいじめにあっています。
周りから白い目で見られている被災者たちは、お世話になっているからと小さくなって生活し、家の中にこもりがちになり、孤独とストレスで、鬱病、パニック症候群になっていく人が多く、自殺者が絶えなくなりました。死んだ方がまし、死にたい人の気持ちがよくわかる、とよく耳にします。実際、また葬式?と思うほど、仮設の自治会長さんはしょっ中、葬式先から電話を寄こします。私どもが支援している方のお兄様も自殺されました。原発で入れない地域のスーパーの店主。生きる希望を失ったようです。

東北の方は、被災前は何世代も一緒に住む大家族が多いです。肩を寄せ合って生活していました。しかし原発によって、家があっても家に住むことが出来ず、家族はバラバラに引き裂かれ、年寄りは一人仮設に預けられ、冷蔵庫の使い方もわからない方、料理作りをしたこともない80代の方が、細々と生活しています。子どもの声が聞こえない、ひっそりとした仮設で、部屋にこもって出ようとしない人や精神的におかしくなった人、救急車の世話になる人が多くなったと、自治会長さんも悩んでいます。

若い夫婦も、夫は仕事を求めて出稼ぎに行き、親子バラバラになり、精神的に不安定になった妻はアルコール依存症になり、子どもも不安定になり、家族崩壊状態です、と言って小学校の校長先生は胸を痛めておりました。
仮設住宅は人間の環境としては考えられないほど最悪です。
私にはとうてい我慢できないと思いました。4.5畳という狭い部屋、押し入れは半畳。収納場所がないため、最低限のものしか置けません。周りに品物を置くと空きスペースは寝るのがやっと。手足を十分に伸ばせません。隣の人の話し声が聞こえるので、小さい声で話したり、テレビも小さい音にして聞いているとのこと。屋根はトタンなので、今は冷房をしないとサウナ風呂に入ったよう。窓は一つでベランダもないので、玄関の戸を閉めると、真っ暗で風通しが悪く、穴蔵に入ったようで、夜は寝られず、熟睡できません、と言います。2~3人家族は4.5畳2間、プライバシーを守ることもできず、空間がありません。ある被災者は、「ここにいると息が詰まりそうで頭がおかしくなります」と言いました。
冬になり暖房をすると結露で床や畳が濡れ、湿気でカビが生えます。また、仮設は杭にチェーンで止めている所もあり、大風が吹くと家が揺れて怖いという所もあります。人間には生活環境が大切で、これでは心身の病気になっていくのは当たり前と言えないでしょうか? 被災者を一日も早く、この環境から救えないのでしょうか? 本腰を入れてアパート等を作り、被災者を仮設から解放できないのでしょうか?
除染について、被災者の声をお伝えします。
「わたしたちの町は、もう住めないことが分かっている。30年40年帰れないことも分かっている。だのに、住めない所をどうして除染するのか。お金を捨てているようなものです。それよりも被災者の生活安定に目を向けて欲しい。別なところに新しい町を作って欲しい。新しい住まいも作って欲しい。除染ばかりに目を向けず、被災者の生活をまず第一にして欲しい。汚染された所は仕方がない。そこを廃棄物置き場にしたら良い。ふる里を失うことは辛いです。しかし、前を向かなければならない。私たちはもう住めないと思っているのですから。しかし、東電と国は除染したがる。そして解除したがる。解除して自宅に帰れると、補償金を出さなくて済むからです。国と東電は一つです」と、ある被災者は言いました。
最近、驚いていることがあります
南相馬市小高区は来年の5~7月ごろ除染することになりました。その前に復興庁は2000万円の予算を出し、被災者に日当で草刈り、ガレキ処理をさせることになりました。
「雇用の確保に、ということですが、それは放射能を浴びさせることです」と役場の人も言いました。実際、現場で働く被災者が30分草刈りしたら1.25マイクロシーベルトあった、と言います。彼は担当者に言ったけど無視された、とのこと。現場には役場の人は来ていません。被災者はマスク無しで、普段着姿で働いています。弁当も出ません。そして、5月から働きだして、3カ月過ぎましたが、今でもお金は出ていません。8月10日過ぎに出ると言われた言葉を信じて、被災者たちは黙々と働いています。「お金のない我々は農協からお金を借りて生活しています。8月10日過ぎにお金が入ったら、農協に返金するつもりです。1日8時間、月~土曜日まで働いています。休みは雨の日と日曜だけです。」

皆さま、福島の方々は悲しすぎませんか? 

全てが人道的に許されることでしょうか?
これは、国をあげての「いじめ」になりませんでしょうか? 
いじめは犯罪行為でもあります。私は国の無関心、対策の先延ばしに、ナチスのユダヤ人虐殺が重なって感じられます。
どうぞ皆様、被災者を救ってください。
皆様のグループに現地の方をお呼びしてお話を聞いて下さい。
そして物品や義援金のご寄付をお願い申し上げます。
ご協力頂けます方は、よろしくお願い申し上げます。
*東電の仮払い金返金については、2012年5月19日に、直接「東京電力原子力補償相談室」に問い合わせて確認済みとのことです。

---転載終わり---

英語長文問題です

Kids and Laughing Teachers Bullied Suicide Teen
The suicide of a 13-year-old boy in southern Japan after classmates systematically bullied him — even making him “practice” suicide — while teachers ignored the abuse or laughed has prompted soul-searching among educators across the country.
One of the boy’s last acts was to text his tormentors and leave voice mails for them to say, “I’m going to die.” They texted him back to say, “You should die.”
The middle school student, whose name has not been released, jumped from his 14th floor apartment in the city of Otsu last October after enduring heartrending tales of abuse at the hands of his classmates.
His father filed several reports with the police, but officers never accepted them, saying that they could not prove that bullying led to his suicide, according to Japanese media reports.
Details of the harassment are coming to light eight months later, following a student survey conducted by the city’s board of education. In that anonymous survey, students write the bullying escalated to “punching and kicking” in September last year, about a month before the teen jumped to his death. The victim was pressured into shoplifting, had his legs and arms tied while bullies duck-taped his mouth. Students watched as their peers pressured the teen into eating dead bees, “pantsed” him, and made him “practice” committing suicide.
In the survey, some classmates report alerting teachers to those “practices,” but say nothing was done.
Instead, teachers reportedly laughed as bullies tried to choke the victim.
“He was forced to eat paper, students choked him. Teachers only gave a verbal warning, but then joined in on the bullying by laughing,” comments in the survey read.
Today, the tearful mayor of Otsu, said that she would launch a new investigation into the teen’s suicide to “seek the truth,” calling the board’s survey “inadequate.”
“I feel awful I have to put students through this again,” Naomi Koshi said. “I cannot apologize to the students enough.”
Local media report Otsu has been bombarded with hundreds of calls and emails from angry parents since the bullying came to light on July 4. A bomb threat was called into the board Thursday, forcing students to go home early.
The teen’s family has not commented publicly on the case since the new details surfaced, but in a letter sent to Koshi, the boy’s father called on the mayor to “seek the truth” and come up with a new anti-bullying policy.
“I want bullying to disappear from every school in Japan,” he wrote. “I want schools to become a safe place again.”

訳せたら、豪華ハワイ旅行3泊4日のツアーパンフレットを差し上げよう。

パンフレットだけね。お金ないから(´Д`υ)

おひさしぶりっす!Q太郎でっすぅ

花畑Q太郎家では、先日新しい車を購入いたしました。んでちょっくらドライブへ・・


制限速度1

どうすりゃいいの~よこの標識~

道路標識ムーンウォーク

危険!危険!
標識ただしい答え

目指すは、県タッキーか巻く度鳴る度

あっ!雨が降ってきた・・
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ヒッチハイクか?ほっとけほっとけ!無視、無視。猫バスまってんだろって・・

あったあったマクドナルホド

なんだこの店(;゚д゚)



Q太郎が病気になったときの日記です

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☆「慢性喘息だね~前からそういう症状なかった?」

医師から言われた。たしかにそういえば思い当たることがたくさんあった。呼吸していても肺から変な音がでてたり、咳すると胸が痛かった。

呼吸困難によくなっていたりしてたっけ。

以前、胸に圧迫感があって病院に行ってみた。その時の話をしよう。 うちの町でもでかい病院だ。その病院は前から変わって?いる。

冬になると爺さん婆さんが皆カゴを持ち歩いてまるでどっかの温泉場のようにみえるのだ。???!!!( ̄ェ ̄;)

こっちの年寄りは寒がりが多く6枚くらい着てるのが当たり前みたいでそれも毛糸だったりするから診断するのに服を脱ぐと山盛りになる。

それでカゴごと異動するらしい。にしてもやたら老人が多い病院だ。

「Q太郎さ~ん」呼ばれてまず血圧。

バンテージ巻いてシュコシュコシュコ・・そこへ見知らぬバアチャン一言・・「呼んだヾ(゜0゜ゞ)?」

看護師が「呼んでませんよ、あちらのイスに座っていてくださいね(^^;)」

シュコシュコシュコ・・「あらっ?」血圧計のホースが抜けていたのだ

どうりで膨らまないはずだ。血圧計り名前を呼ばれ診察・・

聴診器あてられてもなんの異変もみられない。「でも胸が痛いんです圧迫感があるんですヾ(*`Д´*)」

さすがに医師も呆れて「じゃあ、レントゲンとるか・・」

レントゲン室の前に座っていると先客がいたらしくドアから出てきた。

( ☉_☉)?全身管だらけのピクリとも動かない爺さんが寝かせられていた。それを引いているオバチャン・・「うわぁいやなもの見た・・ΣΣ(゚д゚lll) 」私はそんな感覚だった。

とっ、レントゲン室のドアが開きあわててタオルを持って走っていったレントゲン技師「○○さ~ん!タオルわすれてますよ~」おばちゃん「アラアラオーッフォッフォ(^o^)」と動かないじいちゃんの体にタオルをかけて消えていった。

さてさて、とりあえずレントゲンも撮り終り医師のところにいくと

「ぼくじゃ~わからないから来週火曜日に○○医大のスーパーアスリートな先生がくるからぜったいにきてください、必ず(`・ω・´) 」
そういわれたんで仕方ない、店にわがまま言って火曜日に病院へ・・

スーパーアスリートな医師(///∇//) もしかして、白い巨頭の財前みたいな?ブラックジャックみたいな?医龍にでてくる頼もしい医者

そして火曜日・・゚+.(ノ*・ω・)ノ*.・☆。о

わくわくしながら医師のもとへ・・失礼しま~す(*^∇^*)」

;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ

前に座って待っていたのは青白い細いそれでいて 目の下真っ黒な先生・・ドランクドラゴン鈴木君似

(思わず下向いて爆笑しそうになった)

「え~っあっこれね、どれどれ・・う~ん???!!!( ̄ェ ̄;) 」

Q太郎の叫び「(;゚д゚)わからねーんかい?」

そのうち「もう一回血液検査しようか・・」(先週やったのに?)

そういいながら先生は私のカルテをどっかにぶんなげて看護師さんに 叱られてた・・

「お前が見てもらえよ(*`д´)b 」そう思った。

帰り名前呼ばれて料金払いにいくとまたしらないバアチャンが 「あたしけ(方言)?」

ちがうちがう(^^;)それにカゴに、まだセーター 山ほどのっかってるぞ・・


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かなり前にも私は、肺炎の一歩手前なのを知らず待合室で順番を待っていた時の事

長イスで死にそうにになっている私の前に座っているおばさん、知り合いの人とばったりであい「私ね~○○から三日に一度歩いてここに通院してるの」

">(;゚д゚)はぁ?○○っていったらこの病院まで10キロはあるぞ、歩いてこれる元気があるならこなきゃええのに!こっちは呼吸困難で死にそうなのに

この病院の伝説はまだまだある

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